2014年7月13日日曜日

存在の耐えられない不確かさ - 柄本明「風のセールスマン」

7月某日

久しぶりに芝居をみたいと思っていたところ、兵庫県立芸術文化センターの中ホール(「阪急中ホール」)で柄本明「風のセールスマン」という芝居を演じると知って開演2週間前にチケットを購入。2階席しか残ってはいなかった。

阪急中ホールは初めてで800席の規模は観る分にはだぶん大丈夫だろうと思った。とはいえ、800席でも演劇ではそこそこ大きくに感じるのは、それまで300席程度の芝居しかほとんど観たことがなかったからだろう。

芝居については有名人だからチケットをとるということはなく、単に物語が面白そうだったから。チラシにはこう書いてあったのだった。
風に飛ばされる紙くずのように、街から街を渡り歩く男。
売っているのは水虫防止付靴底シート。
ところで或る日、或る街で、男は突然決心する。
「流れるのをやめて住まおう」と。
住まうための男の悪戦苦闘が始まるが……。
(2014.8.13.更新)

2014.7.13. 柄本明「風のセールスマン」 / 兵庫芸文中ホール


原作は別役実で初演は2009年というから今回は再演だ。全国各地で演じられているようである。

今日の客層は年配の方がほとんど。公演中にひそひそ話をしたり飴の包みを遠慮なく開いたりペットボトルの水を何度も飲んだりと客席はカオス状態だったが、有名人見たさの人たちが多いから所与の条件であるとしてただ耐えるのみ。クラシックコンサートに慣れると敏感になりすぎるからいけない。演劇も、上演中はもちろん飲食禁止で会話も御法度である。事実、飴紙の音のせいで一部台詞が聞き取れなかった。

さて、舞台はバス停の標識とベンチ、それから電柱があるだけの簡素なもの。

登場した柄本明は、ひょうひょうと語り始める。セールスマンというものを面白おかしく流れるように話していく。上司との滑稽なやりとりを再現したり、ベンチで休んでいるときにかわした通行人との奇妙な会話を語ったり。仕事の合間に休憩しているだけなのにそう説明しなければわかってもらえなかったらしい。彼はあまり仕事ができなさそうである。

あるいはまた自分自身のおかしさを話し始める。右手と右足を同時に前にだして歩くのを笑われて、なぜ笑われるのか、では交互にだせばふつうなのかとやってみるがふつうに歩いても不自然な歩き方で結局笑いを誘ってしまう。

動きも言葉もコミカルで、冗談を台詞の随所に交えるから一見喜劇の舞台でしかない。事実、観客もみな大笑いである。しかし台詞の隙間隙間にふと絶望する言葉がはさまれるので、わたしは気軽に笑えない。そのときの柄本明は恐ろしい表情をしているのだ。

何も確からしいものがなく仕事をし生活をするしがない1人のセールスマン。座っているだけなのに座っているだけのことであることを云わなければならない。妻の話をしても本当に妻がいるのだということころから説明しなければ信じてもらえない。笑みを浮かべてもそれが笑顔であることを説明しなければならない。出会う人にも、観客にも。それは単に一人芝居だからだろうか。

柄本明がときどき見せる表情のない表情を見て観客は気づくのだった。彼の云っていることはそもそも本当のことなのだろうか、と。饒舌であることがかえって真実味を疑わせる。

養子ではあるが、子供もいるらしい。子供らしい表情を浮かべないその子を不運な事故で失ってしまう。責任を感じた妻も、浴室で包丁を手に自殺をしてしまった。血まみれの妻をみた彼は、包丁に自分の指紋をおしつける。それでは彼が犯人と疑われてしまうのではないか? 彼はこう云うのだ。「刑務所に行けば看守に名前で呼ばれて自分がいることが証明できる」。

犯罪人になることで自分の存在を確かめられると考える彼の絶望とはいったいなんだろう。罪名であってもこの世に生きている証がほしい

妻が横たわる浴室から飛び出して(「逃げたわけではない」)、そのままここに来たのだと彼は云う(ここで場内は深刻に重く静まり返る)。指紋を残したし、会社の上司は自分が今日この地区を回っていることを知っているからもうすぐ警察はやってくるはずだ。彼は「期待」する。しかし一向に警察はやって来はしない。来るはずもないのだ。彼には妻もいなかったし、子供ももちろんいない。すべては架空の話なのだ。

物語を作ることで彼は自分が存在することを確かめようとした。しかし、彼は「存在」しなかった。どのように歩んでも言葉をつむいでも、自分がいま/ここに生きていることを証明することができない。最後、彼は自分さえ「作り物」であることをほのめかして舞台を終える。……

以上は、台本を読んだわけではないわたしの勝手な解釈であるため間違いもあると思うが、さて、なんというストーリーであろう。おそらくは、近代社会に何らかの地位を占めて生きている「個人」の足元の不確かさを伝えたい舞台なのだろう。そう云えば、物語のなかではマイホームに強い拘りをみせ実際に家を購入した彼が簡単にそんなものはなかったかのように語ってもいた。それもまたそういうことだろう。

確かなものは「拘り」によって確かなものとなる。だが「拘り」を捨てれば何もかも一瞬で消えてしまうのが近代社会である。いや、捨てようと思えば何でも捨て去ることができる自由がある。彼がその自由の末路だ。

流されずに確からしく住まおうした決心は空想の支えなくしては成り立たなかった。だが不確かな空想はあたりまえのことに存在の礎にはなりえなかった。これが自由の意味である。

自由から拘束へ、拘束から自由へ。それが繰り返される。