2012年9月15日土曜日

美しさ-レーピン展と『屋根裏部屋のマリアたち』

8月某日

ドビュッシー展の前々日、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムでレーピン展を、その上のル・シネマで映画『屋根裏部屋のマリアたち』を見た。なかなか充実した夜であった。

   夜の渋谷。奥のほうにBunkamuraがあるが見えてはいない   

ところでレーピンとは誰か。

当然知るはずもなく、関心もほとんどなかったためあらかじめ何かを調べたわけでもない。ただ、レーピン展の良い評判をすこしネットで読んでいたから、軽い気持ちで行ってみただけだ。

イリア・レーピンとロシア

   「レーピン展」カタログ 2012年 2300円
(掲載写真がおしなべて低質なのは残念。解説は読み応えあり)

公式サイト : 国立トレチャコフ美術館蔵 レーピン展

カタログによれば、イリア・レーピン(1844-1930)はトルストイやチャイコフスキーらと並ぶロシアの有名な文化人であるという。そんな知名度のある人物と知らなかったのは私の不勉強かもしれないが、本当にそうなのだろうか。

だが彼の略歴や作品をみると、たしかにそうかもしれないと思えるところがある。交友関係は幅広く、トルストイやツルゲーネフとも面識があったという。私が特に注目したいのは、19世紀ロシアとの関係である。

レーピンはロシアの画家とされるが生まれはウクライナ。絵に目覚めたレーピンは当時の若者が皆そうであるように美術アカデミーを目指し、ペテルブルグに降り立つ。1863年のことだった。

当時のロシアで何が起きていたかといえば、革命の気運である。

(個人的好みから例をだせば)ドストエフスキーの『地下室の手記』は1864年、『悪霊』は1871年に出版されたのだが、いずれも革命思想の空想性・残虐性を(批判的に)描いた小説である。だがドストエフスキーがそのような認識を持つようになったのは、自らが革命思想に溺れシベリアに流刑(1849-54)された経験があるからであって、若いころはペトラシェフスキーの社会主義サークルに近い立場にいた。(なにも、国家に敗北したから転向したという意味ではない。)

文芸の世界に絶賛されて迎えられたばかりのドストエフスキー、もっとも社会の潮流にナイーブであった頃のドストエフスキーが影響を受けたように、1850年代前後のロシアは帝政を批判する自由な言論が社会にあらわれていた。レーピンは首都ペテルブルグでそのような空気に直接触れながら美術を学んだのだった。

この影響は彼の作品に確実に反映されている。

といっても、だいぶ後の作品になるが、「思いがけなく」という絵は意味あり気だ。

   レーピン / 思いがけなく 1884-88年

“思いがけなく”家の主人が帰宅した場面である。男は明らかに監獄帰りの姿だ。あるいは拷問つきの拘束を受けていたのだろう。

壁にかかっている絵が暗示しているのだが、捕まった理由は他でもなく革命運動への加担である。19世紀ロシアと監獄と云えば、それしかない。しかもあらかじめ予定されていたのではなく突然釈放されて(あるいは逃亡して)帰宅したのだから、いっそうその特殊性が強調される。場面選択が秀逸であり、加えて彼を迎える子供たちのそれぞれの表情、女中の呆然とした立ち姿、なにより夫人と思われる女性の一瞬の強張りがすばらしい。もちろん、帰宅した主人の戸惑いの表情も。

帰ってくるのを心待ちにされていた人が帰ってきたのか、帰らざるべき人が帰ってきてしまったのか。

表立って帝政を批判しているわけではないが、当時の社会のあるネガティブな側面を(直接的ではなく)間接的に表現した傑作である(直接批判したら政治臭を帯びる)。発表時には賛否両論を巻き起こしたという。

レーピンの作風

さて、レーピンがアカデミーで修行しているときの習作として、レンブラント「老女の肖像」の模写があった。

レンブラントの作品はエルミタージュ美術館に所蔵されており、ちょうど先日、国立新美術館で開催された大エルミタージュ美術館展でも展示されていた。私も見ていたから、Bunkamuraの館内で「あれ?」と一瞬驚いて感慨深いものを感じた。

   レーピン / 老女の肖像〔模写〕 1871-73年

レンブラント / 老女の肖像 1654年 エルミタージュ美術館蔵 
※展示なし


レーピンのほうはネットで適当な画像がなかったためカタログを自分で接写したもの。彼の模写はタッチが荒々しくレンブラントの真髄を吸収しようという意図がよく伝わる。

そう云えば、レーピンの作風は幅が広く、伝統的な写実性と印象派的な視覚性を備えた作品がそれぞれ制作されているのが特徴だ。

   レーピン / 幼いヴェーラ・レーピナの肖像 1874年
(レーピンの妻と娘はどちらもヴェーラという名。こちらは娘のほう)

レーピン / あぜ道にて-畝を歩くヴェーラ・レーピナと子どもたち 1879年

いずれも印象派を思わせる作品である。特に「あぜ道にて」のほうはモネを髣髴とさせる場面選択と筆の運びで、事実、レーピンは1873年から76年までパリに留学しており、まさしく当時社会に登場せんとする印象派に強い衝撃を受けていた。特にマネを崇拝していたという。

でもここにはフランスの爽やかな風は表現されておらず、風は吹かず大地の広大さが訴えてくるのであって、ロシアならではといったところか。

一方で、写実性を存分に発揮した肖像画も多く描いており、個人的に関心がないのでそれは掲載しないが、写実性の高いものとして次の「皇女ソフィア」が強く記憶に残っている。

   レーピン / 皇女ソフィア 1879年

いい画像がないのでカタログを接写。緻密に描かれたソフィアのドレス豪華さはとてもすばらしかった。だが焦点はソフィアの表情である。怒りをここまであらわした女性を描いた絵というのは寡聞にして知らない。皇族の一人をこのように描けるのはこれもまたロシア的であると云える。

ついでにもうひとつ、今回展示はないがカタログの解説にモノクロで掲載されていたもので、ちょっと気に入った絵を。

 レーピン / 水底の王国のサトコ 1876年 国立ロシア美術館蔵 
※展示なし


このような幻想的な絵もこなすのだ。

その他いろいろ

今回の展覧会で最も印象的だったのは、チラシにも採用されている妻の絵。

   レーピン / 休息-妻ヴェーラ・レーピナの肖像 1882年

若く見えるので娘ではないかと一瞬思ったが、妻である。右腕に喪章があるのではないか、という。えんじ色の洋服とソファが高級感をあたえつつ控えめな存在感をもたらしている。

もうひとつは、当時のロシア社交界の華だったというある婦人の肖像。

レーピン / ワルワーラ・イスクル・フォン・ヒルデンバント男爵夫人の肖像 1889年

レーピンの社交界での立場がわかる作品であろう。

   レーピン / 修道女 1878年

修道院を訪れたときに覚えた感動をもとに描かれた絵。モデルは弟の妻ソフィア・レーピナだという。

と、綺麗な女性ばかり並べると、人物の美しさと絵の美しさを履き違えているのではないかとの批判は避けられない。半分あたりで、半分はずれ。

美しいものを描けば絵は当然美しく見える。そして、醜いものを劇的に描けばそれもまた美しい絵になる。それも真実だ。

   レーピン / ゴーゴリの「自殺」 1909年

作家ゴーゴリが原稿を暖炉の火に投じている場面。作家にとって原稿を燃やすことは、自らを燃やすようなことだ。まさしく「自殺」と云える。ゴーゴリのユーモア小説を愛読する私にとっては、衝撃的な図である。ゴーゴリは何をみているか、遠い過去を見ているのか、明日を見ているのか、あるいは何も見えていないのか。

   レーピン / 1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン 1885年 国立トレチャコフ美術館蔵 ※展示なし

この絵そのものは展示されていない。代わりに「習作」が展示されてあって、でも完成作のほうがずっといいのでこっちを。

すべての絵を観終えた感想として、作風としてはレンブラントの影響を受けているのはよくわかったが、西欧にはない、ロシアの薄暗さ、大陸的気質、そしてある種の気高さが彼の作品から伝わってくる。西欧の画家には持ちえぬ魅力だった。

時間を置いてカタログの解説を読んだら、すっかりレーピンに惹かれてしまった(冒頭のガリーナ・チュラク氏の論文は読み応えあり。それで一冊の本ができそうなクオリティ。訳者の鴻野わか菜氏の翻訳も他の美術展のカタログのそれとはレベルが違う上手さだった)。

姫路市立美術館にも年明けに巡回する予定だが、行くか迷う。


『屋根裏部屋のマリアたち』

   屋根裏部屋のマリアたち / 2010年 フランス

レーピン展を観終わったあと、上の階にあるル・シネマで『屋根裏部屋のマリアたち』を観る。

Bunkamuraにせっかく来たのだから映画でもというわけで、上映中のなかからこれを選んだ。

本国フランスでは上映するや否や大ヒットしたそうで、どんな映画か楽しみにしたが、まぁ、娯楽映画であった。





(以下続く。)

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