2011年9月21日水曜日

印象派の「現在」性 - ワシントン・ナショナル・ギャラリー展

9月某日

( 前回 )

閉館まで残り20分。残るブースはふたつ(全体の半分)。鑑賞にはちょっと不可能な時間だ。

急いで移動した先は、3つめのブース「3. 紙の上の印象派」。エッチング(版画の一種)やリトグラフ(これも版画の一種)が集められている。かなり珍しいものもあるようだ。

マネの「ベルト・モリゾ」やセザンヌの「自画像」もある。セザンヌの自画像については『近代絵画』のなかで小林秀雄が、表現ではなくモノとして自分を描いているところにセザンヌの自画像の特徴があるとかそんな話を語っていたのを思い出し、これはいいものが観られたかもしれないと思う(秀雄が直接引き合いに出しているのは油彩画の自画像だが)。しかし時間がないので、最後のブースへ。

「4. ポスト印象派以降」と題された部屋の主役はゴッホであった。この部屋の、というよりこの展覧会のメインがゴッホだ。ゴッホどころか印象派もはじめてのド素人としてはその名前だけで満足である。黄色の「自画像」もあったが、青が基調の「薔薇」が飾られる3枚のうちでもっともよかった(でも帰宅してからカタログをみていると、「プロヴァンスの農園」のほうがいいかもと考えを改める)。

     ゴッホ / プロヴァンスの農園

もうひとりの主人公はセザンヌ。同じく『近代絵画』ではセザンヌについて熱く語る小林秀雄の真意がよくわからないままだったのだが、実際の絵を観てみれば、なんとなく、感覚的に、その一端がわかったような気がした。

     セザンヌ / 水辺にて

なかでもこの「水辺にて」という絵が気にいった。やけっぱちのような描き方だけど、白地の残し方などが慎重に計算されているような気がする。もうひとつ圧巻だったのは「『レヴェヌマン』紙を読む画家の父」。

     セザンヌ / 『レヴェヌマン』紙を読む画家の父

あとで調べると有名な絵らしいが、何も知らずにみてもとても特徴的な絵だった。顔の部分を子細に眺めると貼り絵のようにわずかに濃淡の違う色が描き分けられていて、こんなタイプの絵ははじめてみたのだった。リアル・セザンヌをみた後で小林秀雄の文章を読めば、ぐっと理解が高まるだろう。

カタログやネットでセザンヌについての文を読んでいると、今回アメリカからやってきた中ではどうやら「赤いチョッキの少年」のほうが有名らしい。この絵は時間に追われながら軽く観ただけで終わったので失敗した。次回来たときに観てみるとしよう。

いよいよ閉館時間の17時となった。そして17時を過ぎただろうのに追い出される気配はない。もう少し粘ることにする。もう一度、モネとモリゾをみたい。

なにより、館内にはもう数人しかいない。絵を独占する絶好のタイミングだ。

Uターンしてモネの「日傘をさす女性」の前に向かう。すると、外国人の夫婦?が絵の前に立って会話をしていた(言葉からフランス人だとわかった)。とくに着飾ったわけではないごくごくふつうのフランス人の夫婦が楽しそうにセザンヌに向かって言葉をかわしている光景は、それ自体、いい絵になりそうだった。

その横に並んでじっくり絵を眺めた。(ほぼ)独占である。ふらっと立ち寄ったワシントン~展だが、とても幸運だったのかもしれない。

そして最後にベルト・モリゾの絵を、こちらは完全独占して楽しむ。自分だけの絵のような錯覚がする。

監視する人たちの視線が気になりだしたので、ここで退場。

フェルメールが目的だったのが、モリゾとモネの印象派に感激する一日となった。

印象派の「現在」性

ただ淋しく思うのは、客がとても少なかったこと。

フェルメールはたしかにすばらしいし、貴重なものなのだが、モネの「日傘をさす女性」も同じ程度にすばらしく、貴重なのである。「絵」としてみてみれば質はまったく劣るところはなく、絵の素人である私でさえかけられた絵の前で美しさに釘づけとなるのだ。

フェルメール展に集められた絵画は17世紀を中心としたやはり「古い」ものである。現代の私たちには印象派の(物語としてではなく描写として)劇的な絵画のほうが自分の感覚にしびれるものがあるはずだ。精緻さと物語、ありのままの情景を追求した17世紀の絵画はすぐれて、描かれた時代にがんじがらめとなって(つまり切り離すことはできず)、私たちにとってはいわば「過去」が表現されているものと云えよう。

だが印象派絵画にあらわれる「感覚」(印象)の発露は、もっと汎時代的な受容が可能なのではないか。19世紀でも20世紀、21世紀でも、人間の感覚は大きく変わるところはないのであって、だからこそ印象派の絵画は、客観性ではなく人間の感覚性=主観性に訴えかけるものであるにもかからわず、「現在」を普遍的に表現するものと云えるのではないか。

もちろん「過去」を楽しむことをが好みである人は多いだろうし、私もフェルメールのみならずテル・ボルフ、デ・ホーホらが描く17世紀オランダの一場面一場面は気にいっていて、その美しさは時代を超えて伝わりうるものであることに疑問の余地はない。

ただそのときの楽しみは、17世紀オランダ=「過去」を歴史として、いまの人たちに直接かかわりのないものとしてみる立場でのものとなるはずだ(私たちは欧州人の歴史性さえ帯びていないのだ)。それは、少し距離を置いて絵画をみる姿勢を私たちにとらせ、そのとき、「感覚」ではなく絵本来の出来や物語の意味をさぐる、少し分析的な態度になってしまうのではないか。「当時の人たちは・・・」(あるいは「当時の人たちも・・・」)という言葉を云わずにいられない姿勢それ自体が歴史的である。

それよりも、絵をみて感じたところを(解説やウンチクを語らずとも)そのまま受け入れることができる印象派の感覚主義は、よりずっと時代と場所を超えた影響力をそなえていると云えないだろうか。ある意味絵に物語的な深みが欠落していることもあって、印象派絵画は観たままの感想で楽しめる気安さもあるのだ。

だからこそ思う。フェルメールの名前や貴重性に反応するよりも、絵そのものに反応できる印象派の絵画を観ることのほうが、私たち日本人が日常に絵画を溶け込ませるためのより素晴らしい方向なのではないかと。絵画は仰々しいものであって欲しくはないと思うのだ。

0 件のコメント: